地名シリーズ
淀納所(淀城)

淀城下町の図

寛永14年(1637)に木津川を付け替え、広げられた淀城下町の図です
マウスを図の上に重ねると、以前の城下町が見られます






 巨椋池の西に位置し、宇治川・木津川・桂川の三川が合流する淀は、古来から港として重要な位置を占めていた。
 現在の桂川右岸の、大下津・水垂辺りを「與等津(よどつ)」と総称されていた。(津とは港のことである)
また川を挟んで南にある中州を島の内と称し、淀小橋を渡った桂川左岸辺りを納所(のうそ)と呼んだ。
 納所とは「品物を納める所」の意味で、淀川を上って都へ送られる物資を積み替えなどの為一時保管する所として生まれた。


 桓武天皇が奈良から(淀を含む)京都に都を移した理由の一つは水上交通の利便性を考慮してである。
 巨椋池を真っ直ぐ東へ行けば宇治に、木津川を行けば奈良に、淀川を下れば大坂、そして瀬戸内海を通って朝鮮半島から大陸に至る。
 京都・伏見には「秦氏」を含む大陸からの渡来人が多く住み、早くから先進的な文化・文明が花開いた処である。
 桓武天皇も渡来人の血を引いていることから、その人達を重用した。


 室町時代後期(戦国時代)に淀に城が築かれた。(今の淀城の場所より少し北の納所に)淀古城である。
 天正17年(1589)秀吉が修築した淀古城に茶々が入り、鶴松を生み「淀殿」と呼ばれるようになる。日本で初の城持ち女性の誕生である。
 茶々は産後間もなく大阪に帰り、文禄3年(1594)に納所の淀古城は破却され、天守と矢倉を伏見城に移す。
 秀吉は伏見城完成の後、三栖を港として整備し、そこから宇治川沿いに納所まで堤防を造り、松並木とした。(淀堤の千両松)
 更に、納所と淀の間に「淀小橋」淀と美豆(みず)の間に「淀大橋」を架橋する。



 元和9年(1623)伏見城の廃城にともない、徳川二代将軍秀忠の命により松平定綱が新淀城を、宇治川・桂川・巨椋池の合流点の島の内に築く。
 しかし、この頃の木津川は北川顔(きたかわづら)村に接して北流し、城下に突き当たって西にふれ、宇治川に合流していた。
 したがって、増水すると、大量の土砂とともに城下を直撃した。
 二代目淀藩主の永井尚政は、寛永14年(1637)から2年がかりで、木津川の河道を西に付け替えた。
 それに伴い淀大橋を付け替え、広くなった城下に「新町」が出来、武家屋敷なども増設された。

 これで、城外三町(納所・水垂・大下津)と城内三町(池上・下津・新町)となり淀城下町が完成し、水害の不安からも解放され、淀城下の賑わいは絶頂期を迎え、幕末まで栄えた。

 明治時代に入り、大がかりな河川改修(木津川・宇治川の付け替えなど)が行われますが、次回の『三川合流』で詳しくやります。(お楽しみに!)

 その後の淀は、明治43年(1910)に京阪電車が開通(天満橋〜五条)し大阪・京都のベッド・タウンとして発展する。
 もう一つの大きな出来事は競馬場の開設である。
 日本一の規模と施設を誇る淀の競馬場は、大正14年(1925)に丹波の船井郡須知から移された。
 トラック中央にある池は旧宇治川の水路の生き残りである。
 その池のド真ん中のある小島(弁天島)には、宇治川の守護神「長建寺弁財天」の分身である弁財天像が祀ってある。





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淀城の水車は
城内の庭などに水を汲み上げる目的で2カ所設けられた
上の絵は納所辺りから宇治川を挟んで淀城を見たもので、真ん中に水車が二つ
左に淀小橋、右に淀大橋が見えます