地名シリーズ
三川合流




大山崎の上空から写した三川合流地帯の景色。
右から流れてくるのが木津川、真ん中が宇治川、左が桂川。
桂川と宇治川の間の向こうの方に見えるのが競馬場です。
正面で、まず木津川と宇治川が合流、それが桂川と合流するのが、
右下の方、京阪橋本駅を越えた辺り。
右の山は石清水八幡宮のある男山です。







 淀納所のページからの続きです。

「川除普請」といわれた河川改修が、寛文・天和・元禄時代に行われている。

 築提・浚渫などの河川改修の土木工事はもちろん、土砂の流出を防ぐために、山々に木の苗を植え付けた。
 宇治川・桂川・木津川などの川筋では、寛文9年(1669)から河川の修築が始められた。

 諸工事と並行して、淀川全流域の再点検が行われた。
 天正3年(1683)、幕府は若年寄稲葉正休と共に治水・土木工事にひいでた川村瑞賢を畿内に派遣した。
 彼らは、淀川・大和川水系全てを見てまわり、翌貞享元年に、九条島の開削や安治川の開通などの改修を行った。

 これらは大阪の発展に重きをおいた一連の淀川治水事業といえる。



 明治元年5月末日、山城盆地全域に及ぶ大洪水が起こり、木津川は生津付近で決壊、八幡方面に出水、宇治川も氾濫して巨椋池に出水した。

 この災害を期に、京都府と淀藩は、これまで御牧・佐山の村々が要求しつづけてきた木津川の付け替えに踏み切った。
 旧河道は新河道の替え地として八幡に払い下げられ、今、淀地区内に八幡の飛び地が残っている。
この土地は花崗岩の砂地で耕地に適さず、当初桃や梅などが植えられた。

 明治18年(1885)枚方で淀川が決壊、大阪府全域に被害。
 明治29年(1896)宇治川が向島で決壊、巨椋池も大曲で決壊。
 この2つの大災害の経験から、滋賀・京都・大阪の要望で、明治30年から「淀川改良工事」が14年間の継続工事として行われることになった。

 この工事は、宇治川の水路を全面的に付け替えるという大工事が含まれていた。

 観月橋から木津川合流点まで新堤防を築き、桂川の流出口を拡げて山崎地域まで引き下げ現代の水路にした。
 尚、この間を「澱(よど)川」と呼び、三川合流後の「淀川」と区別している。

難工事とされていた、桂川・宇治川・木津川の合流点が現在のように完成したのが昭和5年。

伏見市が、京都市と合併したのが昭和6年。

これによって巨椋池は、宇治川と一口(いもあらい)の前川で結ばれるだけの、ほぼ独立した池になってしまった。


「巨椋池干拓」のことは、次回のお楽しみに!







(1)古代〜中世

平安遷都から豊臣秀吉が伏見城を築く頃までの様子です。

宇治川は宇治の辺りで直接巨椋池に流れ込んでおり、
巨椋池には無数の島がありました。
山崎橋は、秀吉の時代ぐらい迄は架かっていたようです。





(2)江戸時代

徳川時代に入り、周りの河川による土砂の堆積により
大きくなった淀の中州に「水の城」淀城を建てる。





(3)近世時代

明治元年、大洪水が起こり、
これを期に木津川を大きく西に付け替える。





(4)近・現代

明治33年から3年間をかけて、
宇治川を全面的に付け替え、桂川を山崎辺りまで引き下げた。
これで宇治川は完全に巨椋池と縁を切った。
昭和に入り三川合流付近が現代のように整備された。





上にある4つの地図を
年代をおって
パラパラ・アニメでご覧下さい。




上記より
ちょっと詳しい地図を造りました。
市区町村別に色分けしてます。
サイクリングロードも載ってます。






 前回の「淀納所」と今回の「三川合流」で伏見をとりまく河川の時代変化を調べてみました。

 次回は、もっと伏見に関わりが深かった「巨椋池」のことにとりかかります。



 まだ巨椋池のあった頃の三川の写真がここにあります。



 尚、今の三川合流付近を天王山から撮った写真があります。


 「ながれ橋〜嵐山間 自転車専用道ガイド」を主宰されている、godzillaさんのサイトと、

 「国内旅行情報交換室」を主宰されている、はしもるさんのサイトです。

 それと、男山からの写真が「AGUA」を主宰されている、ardeaさんのサイトにあります。

ぜひ、ご覧になって下さい。


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